前章では、行為論の見地から、社会現象をあたかも自然現象のように見る物象化的錯視をしりぞけ、人間の行為こそが社会を生産・再生産することを確認した。その結果としていえることは、すでにある社会を自明視してはいけないということだ。それは人びとの行為しだいで、まったく別の社会となった可能性のある社会なのだから。そして現に今も社会運動のような反省的行為によって改訂されている社会でもある、と。
しかし、これまでに確認できたのは、さしあたり物象化的錯視に代わる反省的認識の可能性と、問題状況に応じて人間は反省的に行為するということの二点にすぎない。では、いかにして人間は反省的認識をおこない、いかにして反省的行為をするにいたるのか。またそれはどのようなプロセスで社会を変えていくのか。あるいは逆に、みんながおかしいと感じている不公正な社会的事象が不動の事実のようにくりかえされるのはなぜか。そもそもどのようにして人間の行為が大きな社会という現実をつくりあげるのか。これらの疑問について考えるのが以下の諸章の課題である。
「いうまでもなく人間相互のすべての関係は、彼らがおたがいについて何ごとかを知りあっているということにもとづいている。商人は、彼の取引相手ができるだけ安く買い、できるだけ高く売ろうとするということを知っており、教師は、彼が生徒にある質と量の教材の学習を期待できるということを知っている。個人はそれぞれの社会層の内部において、他のそれぞれの個人にほぼいかなる教養の程度を前提すべきかを知っている。――そして明らかにそのような知識がなければ、人間と人間とのあいだのここにふれた作用はけっして生じることができなかったであろう。」▼1
▼1 ジンメル『社会学――社会化の諸形式についての研究(上巻)』居安正訳(白水社一九九四年)三五〇ページ。
ここでジンメルが注目するのは、人びとがもっている知識である。これが社会関係の前提になっているというのだ。しかし、その知識は固定的なものではない。「われわれの関係は、おたがいについての相互の知識にもとづいて発展し、さらにこの相互の知識は、事実上の関係にもとづいて発展する。この相互の知識と事実上の関係とは解きがたく絡みあい、……」とジンメルはいう。▼2知識は社会関係の前提でもあるが、じっさいの社会関係のぐあいに応じて変化する。しかもその知識は必ずしも正確であるとはかぎらない。かれは「われわれの行動は全存在にたいするわれわれの知識にもとづいてはいるが、この全存在にたいするわれわれの知識は、独特の制限と歪曲とによって特徴づけられる」と述べている。