日常生活者としてわたしたちが共有している知識には、たとえば電車の切符の買い方や銀行預金の仕方といった生活上のノウハウや問題の処理法をはじめ、「こういうときにはこうするとよい」といった行動の指針、「男(女)とはこういうものだ」といった通俗的な定義(決めつけ)などがふくまれる。前章でふれた縮約的な障害概念もそのひとつである。さらに「父親」「おば」「教師」「郵便配達人」「店員」といったさまざまな人間類型に関する膨大な知識もふくまれている。また、村や都市や会社や学校などの生活組織における人とのつきあい方や作法、勤勉や正直といった道徳的規範もその重要な要素である。序論でふれた「権力のことば」「消費のことば」も忘れてはならない。▼6
▼7 アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』中野卓監修・桜井厚訳(御茶の水書房一九八〇年)六―一〇ページ。あるいはA・ブロダーゼン編『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九九一年)一三六―一三八ページ。
とはいっても、日常生活者の知識を専門的知識より低く見るのは早計である。前者は「かりに社会の『相応な能力の』成員であれば他の人たちは身につけていると、行為者が仮定し、また相互行為におけるコミュニケーションを維持するためにたよられる、自明視された『知識』」▼8でもあるのだ。つまり、自分が相手に話しかけるとき、わたしたちは、さまざまなことを仮定し・自明視するし、そのことを相手も承知していると自明視する。▼9そのことによってスムーズにことが運ぶのである。このような知識がなければ社会生活は成り立たないだろう。しかし、そうかといって、日常生活者の知識は静態的な不変のものではない。知識は具体的な行為のプロセスで修正されたり、専門的知識の介入によって訂正されたりする。だからいつまでも自明で共通であるとはかぎらない。その意味で動態的に見ていく必要があるし、知識の分布状態にも相当なむらがある(偏在性)。それゆえ時間と空間の広がりのなかで捉えるよう注意しなければならない。